ホロコースト否認

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ホロコースト否認(ホロコーストひにん、ドイツ語: Holocaustleugnung英語: Holocaust denial)は、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人の組織的虐殺である「ホロコースト」の一部もしくは全体を否認する主張。 これらの主張を支持する者を、「ホロコースト否認論者」という。ホロコースト修正主義ホロコースト見直し論[1]ホロコースト否定論[2]とも言う。

ホロコースト否定論は、600万人に近い数のユダヤ人が第二次世界大戦中、ナチスによって虐殺された、という歴史的事実を否定することを核心に置いた現象である。この場合、否定はホロコーストの事実をはっきり否認することの他、該当の事件・事実を極小化・凡庸化・相対化することも含んでいる[3]。強硬派の否定論者ないし「修正主義派(レヴィジョニスト)」(と自己規定したがっている人びと)によれば、ユダヤ人絶滅は実際には起こらなかった[3]。ドイツ側当局はヨーロッパ・ユダヤ人の殺害をけっして計画しなかったし、ユダヤ人が虐殺されたという絶滅収容所なども建設したことも一度もなかった[3]。レヴィジョニストの見るところ、1939年-45年のユダヤ人死亡者数が、まず30万人以上ということはありえず、死因も通常は戦時の欠乏、困難、病気に帰せられるものであった[3]

ホロコーストは第二次世界大戦の最中から噂として流れはじめ、1942年12月17日には西側連合国が「ドイツ政府がヨーロッパにおいて野蛮なユダヤ人絶滅政策を行っている」と非難した[4]。ドイツの占領地域やドイツ領が連合国によって解放され始めると、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所ダッハウ強制収容所などで多くの被害者が発見され、世界に衝撃を与えた。ニュルンベルク裁判などの戦争裁判においてはナチス・ドイツが組織的にユダヤ人を殺害する計画を立てていたと認定され、多くの関係者が処刑された。ホロコーストは戦後の歴史家の研究対象となったが、こうした経緯の中で生まれてきたのが否認論である。

ホロコーストにより数百万人規模の計画的な殺戮が行われたこと、ホロコーストが中央で計画されたこと、およびホロコーストの実行におけるナチ指導部の役割のあったことは、膨大な物証、証言および文献によって、既に裏付けられているという認識が、近現代ヨーロッパ史の研究者における国際的な合意となっている[5][2] 。この状況をアメリカの歴史家デボラ・リップシュタット(英語版)は、「古代ローマの研究者がローマ帝国が存在したかどうかを論争したり、フランス史家がフランス革命の起きたことを証明したりするのと同じである」と述べている[6]

なお、ホロコースト否認論に基づく「論文」のうち、一流論文誌の査読を通過したものは1件もない。否認論者はこのことについて、ヨーロッパ等の歴史学会には否認論を研究する機会が無いためなどとして説明しようとする(2006年イランで行われたホロコースト・グローバルヴィジョン検討国際会議等)。一方でフランスの歴史家ピエール・ヴィダル=ナケは「ロックフォールチーズで出来ているなどと断言する『研究者』がいると仮定して、一人の天体物理学者がその研究者と対話するような光景を想像できるだろうか。歴史修正主義者(ホロコースト否定論者)たちが位置しているのは、このようなレヴェルなのだ」と形容している[6]

ホロコースト否認は学術的な見解に反するのみならず、ヴィダル=ナケが「ドイツ・ナショナリズム、ネオナチズム、反共産主義反シオニズム反ユダヤ主義」が否認論の背景にあると分析しているように[7]ネオナチ等のナチズム再興を標榜する極右派の主要なイデオロギーとなっている。一方で左派出身者にも否定論者は存在する[8]。否認論者は左派であることが反ユダヤ主義者や人種主義者ではない証明であるとして、その「左派」さえ「否認論」を支持しているのだというかたちで「否認論」の正当性を主張しているが[9]、反ユダヤ主義を「右翼」のみに帰するのは余りに単純な図式化である[10][11]。また、大虐殺そのものは明確に立証されており、歴史学者の間で議論になっていない。このため主要なヨーロッパ諸国や、欧州連合の機関においては、公共空間におけるホロコースト否認は、単なる歴史研究ではなく、政治的な意図を持った「扇動」として扱われる(ただし、虐殺の原因、経緯、および犠牲者数には研究者の間で議論があり、それらの学術研究は法的に禁止されていない)[5]。これは、否認論者がしばしば口にする「真理の探究」という口実の裏に、「ユダヤ人による歴史の偽造に対する非難」と「ナチ体制の名誉回復」という真の目的および結果があるという見解によるものである[5]。ただし、犯罪としている国においても、出版などの言論において公共空間に表明することが違法とされており[12]、ホロコースト否認のための研究そのものが法的に禁止されているという事実は無い。

一方で、ドイツと交戦した国でも、イギリスやアメリカにおいては比較的寛容に扱われている。また戦後の中東問題で、イスラエルによる行為を非難する立場から、しばしば否認論が肯定的に取り扱われている。ロジェ・ガロディがフランスにおいてホロコースト否認による人種差別教唆罪に問われた際にも、欧州人権裁判所に対して「シオニズムとイスラエル政府を批判しただけ」と主張したが[13]、「彼の主張はこの範囲にとどまらず」「実際には明白な人種主義的な目的を持っている」として却下された事例[14]もあるように、否認論者側がイスラエルとシオニズム批判を否認論と結びつけることもある。

ヴィダル=ナケは、否認論者の言論を次のようにまとめている[7]

ホロコーストに関して、生存者、目撃者、歴史家によって提出された証拠は圧倒的な量ではあるが、否認論者はそれに対して、その「矛盾」を指摘することにより、ホロコーストに関する「通説」の立証は十分ではないとして、その見直しをするべきだという立場をとる。彼らは主流であるホロコースト研究者を「大虐殺信奉派」「通説派」「定説派」などと形容している[2]

しかし否認論者の主張は学界では認められていない[2][5] 。彼らはしばしばそのこと自体を「定説派」が世界を不当に支配している証拠として主張している。しかし一般には否定論者が史学的な検証姿勢を持っていないことが指摘されている。

中東研究家で、ユダヤ関係の著作を持つ滝川義人は否認論者の行動パターンを「あらかじめ決めていた結論に一部分の事実をはめ込み、逆にその結論と矛盾する事実はすべて無視し」「小さな誤認や食い違いを、歴史をひっくり返す大発見とはやし」「当時は不可能だった対応がなかったのはそれがなかった証拠とし」「相手には厳密な証明を求めるのに、自分の意見には因果関係を証明せず、ハーフトゥルーズの世界をつくりあげる」と指摘している[2]。例えば、エルンスト・ツンデル(英語版)などの否認論者は、フレッド・ロイヒター(英語版)がアウシュヴィッツのガス室跡地を調査したが、シアン化物の痕跡は見つからなかったとするロイヒター・レポートを、「強制収容所にガス室は無かった」と主張する上で重視している。しかしロイヒターは化学の専門家でもなく[15]文献資料も無視しているため、ツンデル裁判においては証拠としての価値を認められなかった。一方で1994年にクラクフ医科大学のヤン・マルキェヴィチのチームが行った調査では、ガス室の跡地からシアン化物が発見されたという報告があるが[16]、否認論者がこの調査を重視することはない。また否認論者が行う主張においては、『アンネの日記』などの「定説派」の文献のみならず、ポール・ラッシニエ(英語版)といった「否認論の先駆」である著書の文脈無視、改竄などをおこなっていることも指摘されている[2]

学会ではほとんど評価されない否認論者は、論争を行うことによって世間の耳目を集める戦略に出ている[2]。アメリカの懐疑論者マイケル・シャーマーは、フランスの否認論者ロベール・フォリソン(フランス語版)が「餌をまいて『大虐殺信奉者』と彼が呼ぶ相手を引き寄せることを好む」と指摘している[2]。こうした「論争」によって否認論者が主張を変更したことはほとんど皆無である。フォリソンは「たったひとつでいい、たったひとつでも証拠を見せてほしい」というフレーズを好んで用いているが、「どういったものを証拠と考えているのか」というインタビュアーの問いにはついに答えなかった[2]。リップシュタットは「否認論者とは議論しない」という原則を揚げているが、これは否認論者が議論においてホロコーストがあったか無かったかという二項対立に持ち込むことで、否認論があたかも重要な価値を持つかのように誤認させる目的があるためだとしている[2]

ホロコースト否認論者、または「ホロコースト見直し論者(修正主義者)」の多くは、「否認論」または「否認主義」という用語[17]を強く拒否し、「見直し論者(修正主義者)(revisionist)」を自称している。その理由は、彼らによれば、彼ら(revisionist:リビジョニスト)は、ガス室やユダヤ人絶滅政策を否定しているのではなく、証拠の欠如を指摘しているだけなのだと言う。この理由から、デイヴィッド・アーヴィングは、デボラ・リプスタットが、自分(アーヴィング)を「否定論者」と呼んだ事を理由に、リプスタットを名誉棄損で訴えている。又、他の論者たちも、ガス室やユダヤ人絶滅政策が無かったと結論づけているのではなく、現時点では、証言以外に何も証拠(物証)が無い事を指摘しているだけで、証拠の提示を待っているのだと主張している。更に、「ホロコースト」の定義に幅が有る事から、ドイツによるユダヤ人迫害全般を否定している訳ではない事を強調する意味もあって、彼ら(revisionist)は、「否定論者(denier)」と呼ばれる事を強く拒否する傾向がある。これに対して、ホロコースト否認、または「ホロコースト見直し論(修正主義)」を批判する研究者は、「ホロコースト見直し論者(修正主義者:リビジョニスト)」が使う「見直し論(修正主義:リビジョニズム)」という用語に対して、故意にミスリードするものであると指摘する[18]

これは「否認論」は自分が予想した仮説を支持する証拠のみを採用し、史実をなおざりにするという印象を与える用語であるのに対して、修正主義は、新しく発見されたより正確でより客観的な情報によって歴史の事実を新しく書き換えていくことを目的とし、それまで受け入れられていた歴史を再び調査・検討しようとする態度を示しうるためであるとしている。

「ホロコースト修正」の立場を主張する論者は、適切な修正主義的原則をホロコースト史に適用すべく努めているとし、この視点において「ホロコースト修正主義」という用語が適切であると主張している。「ホロコースト否認論」の用語は「戦後のホロコースト観が描写するようなホロコーストは起こっていないとする論説」に用いるのに対して、「ホロコースト修正主義」という用語は、一次史料などからホロコーストの諸側面を考察するのに用いられる通常の史学的態度に使用されるとしている。一方で、この言説は、主流であるホロコースト研究においても大虐殺の詳しい原因(意図説・機能説論争)、ホロコーストの経緯、犠牲者の正確な数などなお研究者の問で意見・解釈の分かれる論点が多く存在している[6]ことを無視している。

彼らが主張する「ホロコースト否認論」と「ホロコースト修正主義」の区別は一般的に受け入れられていない。2006年2月に独学の歴史家・作家[19]デイヴィッド・アーヴィングがホロコースト否定を理由にオーストリアで有罪判決を受けた時、イギリスのニュースメディアはアーヴィングに対して「修正主義者」という用語を頻繁に使用するなど[20]、「歴史修正主義英語: Historical revisionismには史学的な手法をとらず、過去の歴史を否定することを目的とする人々への形容詞や蔑称としても扱われるようになっている。

否認論者によってしばしば主張される言論詳細を以下に記す。ただし全ての論者が同一の主張をしている訳ではない[22]

残された公文書には殺害という字句を使用していない。ヴァンゼー会議の状況においても、ナチス政権上層部のホロコーストに帰着するような殺害命令は存在していない。 公文書群の中には、アウシュヴィッツなどに収容したユダヤ人を戦後、ロシアに移住させる計画案がある。これは収容所の建設目的が「ユダヤ人絶滅」ではなく、ソ連を打倒した後に、ユダヤ人をロシアに強制移住させるための準備であったことを意味している。「最終的解決」と言う用語も、戦後の強制移住計画を指していたことが読み取れる。だがソ連戦線の崩壊とともに移住計画は頓挫し移住による「最終的解決」は不可能となり別の解決策が模索された。 当時のドイツ政府は「ユダヤ人絶滅」計画のための予算を全く計上していなかった。だがその予算表にはユダヤ人から接収した資産は計上されておらずその接収資産をそのままユダヤ人対策の予算として使っていた証拠の一つとなっている ドイツは確かにユダヤ人を差別、迫害したが、その状況の下においても、ユダヤ人を虐待したドイツ人を処罰する場合もあった。

収容所での死者数を誇張している複数の例が報告されていることは事実であり、反修正主義者も年々死亡者数と死亡地域の変更を余儀なくされている。

1945年11月から翌1946年8月にかけて行われたニュルンベルク裁判は戦後秩序の形成を進めた一方で、ドイツにおける歴史修正の原点ともなった。ドイツ人たちは名誉を回復するために、以下のような論拠に基づいてニュルンベルク裁判を否定した[62]

こうした論拠は一部が正当とも言えたために、これ以降ニュルンベルク裁判の否定が定型化することとなった[62]

ドイツでは敗戦直後、歴史の修正がテーマとなる以前の状態であり、むしろナチ時代はそれほど悪くなかったという認識が優勢であった。例えば1948年の世論調査では、ナチズムは良い理念だが実行の仕方が悪かったという意見に約6割が賛同し、指導者としてのヒトラーを肯定的に評価する意見は3割を超えていた[63]

むしろ戦後すぐにホロコーストの否定が発信されたのはフランスであった。フランスではドイツの傀儡政権であるヴィシー政権が国家的に対独協力を進め、一部の市民はユダヤ人排除に手を貸したため、ナチの免罪が自らの免罪を意味していたし、第二次世界大戦以前からフランスには長い反ユダヤ主義の伝統があったからである[64]

例えば1948年にフランスのジャーナリストで文芸評論家のモーリス・バルデシュ(英語版)は『ニュルンベルクあるいは約束の土地』(Nuremberg ou la Terre promise)を著したが、彼はその中でニュルンベルク裁判を否定してユダヤ人にこそ第二次世界大戦の原因があり、彼らが連合軍と共謀して強制収容所を捏造したのだと主張した。また対独協力を正当化するために、第二次世界大戦中にユダヤ人は600万人も死亡しておらず、80〜90万人が病死したに過ぎないとも主張した。バルデシュはフランスのファシズムの潮流に位置付けられる人物で、アクション・フランセーズの雑誌『ジュ・スィ・パルトゥ(英語版)』の編集者を務め、ソルボンヌ大学で教えたこともあった。義兄に対独協力者として処刑された作家のロベール・ブラジヤックがおり、敬愛していた彼が処刑されたことでバルデシュはホロコーストの否定と戦後体制の拒否に向かったとされている[65]

またフランスのジャーナリストポール・ラッシニエ(英語版)も「ホロコースト生存者」の証言に疑義を呈した。彼は1949年の『戦線を越えて』(Passage de la ligne)や1950年の『オデュッセウスの嘘』(Le Mensonge d'Ulysse)といった著書で強制収容所の実態を極端に歪曲する主張を展開したため、フランスのホロコースト否定論の始祖と位置付けられている。彼によれば強制収容所では囚人の中から選ばれる監視役の「カポ」が最も残忍であり、むしろドイツ人の親衛隊員は人道的ですらあったという。また門の前で夜通し見張りに立っていた親衛隊員でさえ強制収容所の中で起こっていたことにはほとんど何も気が付かなかったため、ドイツ人がこうした実態を知らないのは当然だとしてドイツ無罪論を説いた[66]

1964年には『ヨーロッパ・ユダヤ人のドラマ』でガス室を始めとする戦後の通説に疑義を投じた[38]。ラッシニエは社会主義者、非暴力主義者で、ドイツ占領下のフランスでレジスタンスに身を投じ、ユダヤ人をスイスに脱出させる活動などを行なっていた。そのために自らがゲシュタポに捕えられてブーヘンヴァルト強制収容所ミッテルバウ=ドーラ強制収容所に収容された。戦後、レジスタンス活動によりフランス政府から最高位の勲章を受けている。

しかしラッシニエ自身の主張そのものは、「ガス室で殺された人数は通説ほど多いものでもないと思われる」という程度のものであり、ラッシニエ自身は虐殺自体を否定してなどいなかった。ところがアメリカの歴史見直し研究所 (IHR) は、ラッシニエの著書を英訳するに当たって、「ガス室で死んだ人間は全くいなかった」とし、彼の主張を改竄している[2]。現在でも否認論者達はラッシニエを「ホロコースト修正主義の父」と呼び、現在も彼の著作をホロコーストに関する通説に異議を申し立てた学術的な研究として引用している[2]。また、シオニストがホロコーストの捏造を行ったという見解は後世にも引き継がれている[67]

ラッシニエへの批判としては「ブーヘンヴァルト強制収容所は絶滅収容所ではなかったので、ガス殺人を目撃しなかった」という彼の主張は意外ではないとするもの、また、ラッシニエは旧来説支持者を納得させるだけの証拠を挙げておらず、自己の指摘と矛盾する情報を無視している点などがあげられている。

またラッシニエと同時期に、ルーマニア系ユダヤ人であるブルグ(Burg)も、戦後語られ出した「ガス室」などによるユダヤ人大量殺戮の主張に疑問を抱き、収容所を自ら調査するなどしている。

1950年代の冷戦体制の中、東西対立の最前線に押し出された西ドイツでは西側の安全保障体制に組み込まれるべくナチズムと訣別し、過去を反省して犠牲者に謝罪すべきだというヒトラー時代の「公的」な解釈が形成された。一方で一般市民の間ではナチ時代は全面的に悪しきものとは見做されていなかったため、ヒトラー時代の政治的な解釈と国民の実態にはギャップが生まれた。こうした中で戦争責任の否定と戦争犯罪の矮小化・相対化が行われ、そのような主張は書籍、雑誌、政治団体の機関紙、東欧を追われたドイツ人道鏡団体のニューズレターなど、さまざまなメディアで見られるようになった。例えばヨアヒム・フォン・リッベントロップの未亡人アンネリーゼは亡夫の意向を編纂した『ロンドンとモスクワの間で』(Zwischen London und Moskau)を出版し、さらに自らドイツの戦争責任を矮小化する著作を数々発表した[68]

また1950年代のドイツ社会はナチ時代からの明白な連続性の上にあった。連合国の非ナチ化政策によって古参のナチは処罰されるか、再教育によって転向させられたことになっていたため、ナチ体制なき後もナチ的世界観を支持するものは「ネオナチ」と呼ばれたが、現実には連続的なナチズム支持者であった。こうした集団は1950年代ごろから政治的に組織化され、1949年に結成された社会主義帝国党は1951年の地方選挙で躍進し、1950年にはドイツ帝国党 (DRP)(英語版)が生まれた。そうした中で特にホロコーストの否定を続けたのは戦後のネオナチズムを代表する人物、オットー・エルンスト・レーマーであった。彼は自ら発行する雑誌『正義と真実』などでホロコースト否定論や歴史修正主義的な発信を続けた。彼は国防軍の指揮官でヒトラー暗殺未遂事件を鎮圧したことで知られるが、戦後は社会主義帝国党の副代表やイスラエルと敵対するエジプトの軍事顧問などを務めるなど、ナチズム礼賛や反ユダヤ主義がトーンダウンすることはなかった[69]

コロンビア大学の歴史家ハリー・エルマー・バーンズ(英語版)は晩年ホロコースト否認の姿勢をとるようになった。バーンズは立場的には主流派に属する歴史家であり、歴史修正主義運動の初期の指導者の一人である。戦間期には反戦的な著述家で、第二次世界大戦後、ドイツと日本への批判は米国の参戦を正当化するための戦時プロパガンダに過ぎず、その正体が暴かれる必要があると考えた。バーンズは晩年の著作でホロコーストを戦時プロパガンダに含まれるとした。同様に反戦的歴史修正主義の立場をとってきた著述家ジェームス・J・マーティン(英語版)はバーンズに倣ってホロコースト否認論の姿勢を示した[70]

アメリカ人の歴史家デイヴィッド・ホッガン(英語版)1961年に発表した第二次世界大戦の原因を論じた『強制された戦争』 (Der Erzwungene Krieg)、1969年には、ホロコーストを否認する最初の本の一つである『600万人の神話』を執筆した[71]。ホッガンは一流大学教授の経歴もあり、ホロコースト否認論運動初期の中心的人物の1人となった。

1970年代にはヨーロッパと北米でほぼ同時にホロコースト否定論が登場し、ホロコーストを否定する内容の本やパンフレットの出版が始まった。世代交代によって戦後世代が社会の主流となり、特にドイツでは学生運動の中で祖父や父親たちのナチズムへの関与といかに対峙するかが中心的なテーマとなったが、これに対し若者の新しい政治志向を好まない保守層が一種の自己防衛としてホロコーストの矮小化や否定を行ったのであった。また国際的な背景としては相次ぐ中東戦争におけるイスラエルの勝利の影響を強く受けた。1967年には第三次中東戦争ではわずか6日で周辺地域を制圧し、1973年第四次中東戦争でもイスラエルは勝利した。こうした状況はイスラエルの軍事強国化を鮮明にし、ホロコーストの避難民の国がわずか30年で中東の勢力地図を塗り替えた事実はシオニストによる世界支配だとユダヤ陰謀論支持者たちの目には映った[72]

ただしホロコースト否定論は登場した時期が同じでも地域的な特質があった。北米のアメリカやカナダは移民国家であったゆえに明白に人種主義的な性格が見られ、加えてアングロサクソン系の国家では「表現の自由」を重視し、悪しき意見にも発言の自由を認めるという法的伝統が存在するため、ホロコースト否定論を支持するかどうかは個人の自由に帰した。一方で大陸ヨーロッパ諸国、つまりドイツやフランスでは特定集団に関する歴史の否定は人種主義的な表現とされ、刑事罰の対象となるため、あくまで歴史の記述の問題であるとされた[73]

1973年ドイツ系アメリカ人で中世英文学を研究する大学教授、オースティン・アップ(英語版)が『600万人の詐欺』(The Six Million Swindle)と題されたパンフレットを出版した。彼はここでホロコーストで600万人が殺害されたというのはイスラエルが西ドイツから補償金を詐取するための「嘘」であると主張し、1952年に結ばれた総額約30億マルクを支払うという補償協定の根拠となる事実は存在しないとした。こうした、ユダヤ人がドイツ人から金を搾り取るためにホロコーストを利用したとする言説は狡猾で金にがめついユダヤ人が無垢なキリスト教徒を騙すという伝統的な反ユダヤ主義の焼き直しであり、これ以降もユダヤ人迫害を正当化するために何度も持ち出された[74]

1974年、アウシュヴィッツ周辺のモノヴィッツで天然ゴムに代わる素材の開発に従事していた元親衛隊員のティーズ・クリストファーゼン(英語版)が回想録『アウシュヴィッツの嘘』(Die Auschwitz-Lüge)を出版し、ドイツのユダヤ人政策は批判されるべきであるが、戦後のアウシュヴィッツ像はあまりにも誇張されたもので、クリストファーゼンがアウシュヴィッツ周辺で勤務していた当時、ユダヤ人ら被収容者は虐待されていなかったと証言した。戦争末期は別として、大戦中前半はユダヤ人への待遇は戦後語られるような劣悪なものではなかったという。また、被収容者のための売春宿があったことや、当時アウシュヴィッツに勤務していた同僚のドイツ人の中には、ユダヤ人と友情を結んで戦後も文通を続けた者などもいた事実を挙げて、戦後のアウシュヴィッツ像は虚偽であると主張した。更には、クリストファーゼン自身が、ビルケナウ収容所における衛生状態の劣化に懸念を抱いて、ユダヤ人の処遇を改善するよう上司に提案したことがあったことや、ユダヤ人の中にはドイツよりもソ連を恐れる者がいて、ソ連に対するドイツの勝利を期待していたユダヤ人がいたことなどをも述べている。ただし、これはいくつかの証言の一つに過ぎず、歴史的事実として広く認識されているわけではない。そのため、一切の証言は信用ならず証拠にならないとの態度を取りながら、事実という前提で引用する一部の修正主義者は、その言動の矛盾を指摘されることもある。

1976年アーサー・バッツ(英語版)が『20世紀の大ペテン(英語版)』(The Hoax of the Twentieth Century: The Case Against the Presumed Extermination of European Jewry)、1977年デイヴィッド・アーヴィングが『ヒトラーの戦争(英語版)』を発表、ベストセラーとなったことから、ホロコースト否認論の代表的な論客と見なされている。これらの著述はホロコーストに対する疑義として現在も否定論者の間で重要視されている[75]

1978年3月18日には、リチャード・ヴェラル(英語版)の著書『本当に600万人も死んだのか?』(Did Six Million Really Die?)のフランス語訳を刊行した国民戦線のフランソワ・デュプラ(Francois Duprat)がユダヤ人組織に殺害され、妻も腕と足を失った[61][76]。同1978年、ソルボンヌ大学で文書鑑定を専門としていたロベール・フォリソン(英語版)が『ル・モンド』紙に「ガス室」の存在に疑問を投じる記事を発表しフォリソン事件(英語版)が起きた。フォリソンは「ガス室」を欺瞞 (fraud) と呼び、「この欺瞞の犠牲者は、(ドイツの)支配者たちを除くドイツ人と、全てのパレスチナ人だ」と述べ、この問題がパレスチナ問題と密接に関係することを指摘した。その後、1989年9月16日、ユダヤ系団体のSons of Jewish Memory(ユダヤの記憶の子供)から襲撃され、顎と顔を砕かれ重傷を負った[61]。Sons of Jewish Memoryの犯行声明文には「ホロコースト否定派をぶるぶる震えさせろ」とあった[61]

1979年、大戦中ドイツ空軍部隊将校として自らアウシュヴィッツを短期間訪れた経験を持つ西ドイツ(当時)の判事ヴィルヘルム・シュテークリッヒ(英語版)は、裁判官の視点からニュルンベルク裁判をはじめとする戦後の「戦犯」裁判と、ホロコーストを徹底的に検証したとする『アウシュヴィッツの神話』(The Auschwitz Myth - Legend or Reality)を刊行したが、1980年にはシュトゥットガルト裁判所の命令によりドイツ国内で頒布禁止とされ、発売日に書店から回収された。

1978年、米国でウィリス・カート(英語版)によって歴史見直し研究所 (IHR) が創設された。これは「ホロコーストの俗説」に異議を唱える組織であり、英語圏における見直し論の広がりにおいて中心的な役割を果たしている。IHRは科学的な歴史修正主義を標榜し、ネオナチの背景を持たないジェームス・J・マーティンやサミュエル・エドワード・コンキン三世(英語版)のような支持者を歓迎し、またラッシニエやバーンズの著作の英訳を販売している。ホロコースト肯定者はIHRの支持者はネオナチや反ユダヤ主義者であり、出版配布されている資料の多くはホロコーストに疑問を呈することを専らとしている団体であると攻撃している[77]。IHRは「我々の組織はホロコーストを否認しない」と表明しており、IHRの定期刊行物には次のように書かれている。

IHRは「殺人を目的としたガス室がアウシュヴィッツに存在したという(検証可能な)証拠」に対して50,000米ドルの賞金を提示したのでアウシュヴィッツの生存者メル・メーメルシュタイン(英語版)は証拠を提出した。しかしIHRは賞金を支払わないので個人的苦痛に対する損害賠償訴訟を起こし、勝訴、40,000米ドルを受け取った。

IHRはユダヤ主義者から暴力による襲撃を繰り返し受けており、1981年6月26日、1982年4月25日には放火、1982年9月5日には事務所へ発砲をうけ[61]1984年7月4日にはシオニストグループによって放火され多くの資料が焼失した[61]。見直し論者側はこれを焚書行為と糾弾し、ゲルマール・ルドルフは「異なる意見を抱いているだけで、非人間、悪魔、害虫、下等人種とみなしていいのだろうか? ナチスはそれをやったから非難されているのではないか? 扇動的な表現をすることは、ファシスト的、ナチス的、人種差別主義的ではないか」とユダヤの過激派を批判した[61]

1984年、カナダの高校教師ジェームズ・キーグストラ(英語版)は授業で資料の一部としてホロコーストに関する戦後の通説に疑問を呈する教材を使用し反ユダヤ主義的主張をしたとして告発され、有罪宣告を受け、解雇された。1988年7月18日にはキーグストラの自宅が放火された[61]

プリンストン大学教授で、左翼と見なされていた歴史家アーノ・マイヤーは、は、1988年に『天はなぜ曇らなかったのか?』 [80] において、(1)ドイツははじめからユダヤ人を絶滅する計画ではなかったと考えられる、(2)アウシュヴィッツで死亡したユダヤ人の多くは故意の殺害ではなく、病死や飢餓の犠牲者であった等の考察を述べている。メイヤーの問題提起はニューズウィークでも取り上げられ、日本の西岡昌紀にも影響を与え、マルコポーロ事件が発生した。

1987年、ブラッドリー・スミスが「ホロコーストに関する公開討論委員会」 (CODOH) を創立。CODOHは、ホロコーストの通説を問題とする新聞広告をアメリカ合衆国内の大学学生新聞に打つ試みを繰り返している。掲載の諾否は新聞によって異なるが、編集長がどちらの判断を下しても、ほとんどの新聞は表現の自由を理由として、あるいは反ユダヤ主義的な言論は慎むべきであるという理由で、自らの判断を擁護する論説を掲載している。この広告キャンペーンによって、1990年代初期に多くの学生新聞にCODOHの広告が掲載され、全国的な議論を巻き起こし、ニューヨーク・タイムズもで取り上げた[44]2000年以降は、ユダヤ人広告主の批判を受けた事もあって、少数の例外を除き大半の学生新聞が広告を拒否するようになった[要出典]

カナダ居住者のエルンスト・ツンデル(英語版)はサミスダット・パブリッシング (Samisdat Publishing) という出版社を運営し、リチャード・ヴァーラルの著書『本当に600万人も死んだのか』などの書物を出版した。1985年、ツンデルは「ホロコーストを否定する書物を配布、出版した」として「虚偽の報道」罪で裁判にかけられ、オンタリオ州地方裁判所によって有罪宣告、15箇月の禁固刑を言い渡された。この事件は大きく注目され、多くの活動家が表現の自由を訴えて、ツンデルの表現の権利を擁護しようと介入し、1992年カナダ最高裁判所が「虚偽の報道」法は憲法違反だと宣言し、彼の有罪判決は覆された[81]。この裁判で1988年にツンデルが弁護側証拠として米国のフレッド・ロイヒター(英語版)に依頼して作成した「ロイヒター・レポート」は、一般にガス室とされている建造物では技術的な問題からガスによる殺人は不可能であると結論づけている。裁判でロイヒターが証言をしたものの、彼が工学修士ではなく哲学修士であること、ビルケナウのガス室に関する資料を十分に読むことなくレポートを書いていることを指摘され「専門家による証言」とはみなされなかった。1995年5月20日にはツンデル自宅へ爆弾が届く[61]。その後、ツンデルはウェブサイトを立ち上げて主張を宣伝した。このウェブサイトに対する告訴に対して、2002年1月、カナダ人権裁判所はカナダ人権法に違反しているとの判決を下した。2003年2月、アメリカ合衆国移民帰化局はテネシー州において移民法違反の容疑でツンデルを別件逮捕し、数日後カナダに身柄を送還した。そこでツンデルは難民認定を受けようとしたが、ツンデルは2005年1月まで拘留され、11月にドイツで起訴された[1]

1993年には、当時マックス・プランク研究所の臨時職員であったゲルマー・ルドルフの「ルドルフ・レポート」がロイヒター・レポートと同様の結論を提示した。批判としてはインターネット上で発表された Richard J. Green のものがある。レポート内でルドルフは「化学を用いてもホロコーストの存在を科学的に立証することはできない」と、化学的な論争を回避している。「ルドルフ・レポート」は極右運動家のオットー・エルンスト・レーマーの裁判において被告側の弁護資料として用いられた。

1998年、アメリカの歴史家は著書『ホロコーストの否認[82]』 において、アーヴィングが意図的に事実をゆがめて書いていると非難した。これに対してアーヴィングが彼女と出版社のペンギン・ブックスを提訴したが、訴えは棄却され、裁判所ではリップシュタットの考察が正しいと認定された[83]アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件)。

1998年10月、ユダヤ系の The Scribe誌は「神の存在を否認する者は罰せられるべきである」「ホロコーストへの正しい態度とは、神の敵であるわれわれの敵に罰を与えることである」として、否認論者こそが「われわれの敵」であり、この人々は「ホロコーストに関与し、参加したとみなされるべきである」し、否認論者の頭には「死刑宣告」とある、と述べた[84]

フランスではホロコーストの否認は1990年代に否認主義 (négationnisme) として顕著になってきたが、この動きは遅くとも1960年代にはピエール・ギヨーム(英語版)などのフランス左翼政治家の中に存在していた[85]。1990年代には、フランス共産党の理論的指導者であったフランスの左翼系哲学者ロジェ・ガロディが、「ガス室」をはじめとする従来の「ホロコースト」言説に疑義を提出し、イスラエルが政治的にこの言説を利用してきたと論じた。近年、フランスでは左派右派を問わず、否認論が広く展開している。その主張はホロコーストを越えて広がり、戦後それを最大限に利用してきたイスラエル批判にも繋がっている。この中には「ユダヤ人資本家」への批判、聖書にあるカナン人虐殺への指摘、シオニズムに対する批判などが含まれる[86]

1990年代半ば以降、インターネットが大衆化するにつれてホロコースト否認論者やその他のグループを含む多くの組織が新たに国際的な登場をしてきた。他方、1970年代後半から頻発した否認論者への暴行や関係出版社への放火なども多発し続けた[61]1996年9月にはイギリスの歴史評論社印刷所に爆弾放火が行われ、1999年1月16日にはバルセロナの書店Libreria Europaが放火された[61]

2000年代に入り、ある重要な出来事によって、ホロコースト否認論者は核心的な論拠を失った。それはアーヴィングの転向である。オーストリアでは、公共の場におけるホロコースト否認は犯罪であり、アーヴィングが1989年に行った演説を理由に逮捕状が出されていた。2006年、アーヴィングはホロコースト否定の罪によって、オーストリアにおいて起訴され、その場において、「私は1989年にホロコーストを否定したが、1991年にアイヒマン論文を読んでからは認識を改めた」「ナチスは数百万人のユダヤ人を殺した」「具体的な数字は知らない。私はホロコーストの専門家ではない」と、自らの否定説を撤回する発言を行ったものの、3年の懲役刑を受けた[87]。オーストリア内務省の決定で、アーヴィングは国外退去処分とされた。アーヴィングは自由の身となったが、その後自らの転向を取消したという情報はない。

ユダヤ人指導者がホロコーストを利用して金銭的または政治的な利益を得ており、「ホロコースト産業」 (Holocaust industry) や「ショアー・ビジネス」 (Shoah business) という用語もある。たとえば、1996年、スイスの主要銀行に対し、ホロコースト犠牲者のものとされる休眠口座に眠る預金の返還を求めるユダヤ人の集団訴訟が起こされた。1997年、ドラミュラ大統領兼経済相は「あたかもスイスにもかつて強制収容所があり、ホロコーストの主犯であったかのような非難だ。賠償金の要求はまるで脅迫のようなもの」として、これを「ゆすり・たかり」と非難したが[88]、イスラエルやアメリカの圧力を受け謝罪を余儀なくされる。1998年、休眠口座の調査は続行中だったが、銀行側が今後支払い要求に応じないことを条件に12億5千万ドルを支払うことで政治決着した。2001年10月13日、英紙タイムズはスイスの独立請求審判所による調査の結果を報じ、それによれば休眠口座の総額は6千万ドル程度に過ぎず、ほとんどは少額で、処理した10,000 件近い請求のうち確認できた口座は200件だった。

ユダヤ人政治学者ノーマン・フィンケルスタインは、2002年、このようなユダヤ人団体の行動をホロコーストを利用して利益を得るものとして批判する『ホロコースト産業』を著した。このユダヤ人団体などからホロコースト否定論者とされ非難を浴びた。しかし、フィンケルスタインは『ホロコースト産業』において「ホロコーストを利用して利益を得るユダヤ人団体」を批判したのであって、ホロコースト否定論を唱えている訳ではない。著名なホロコースト研究家であるラウル・ヒルバーグや、ユダヤ系であるノーム・チョムスキーはこのような見解を支持している[89]。一方で「産業論」はホロコースト否定論者に好意的に用いられることもしばしばある。

また、ホロコーストはユダヤ人にとって道徳的優位の道具として用いられているという言説はしばしばある。1987年、ベルリン自由大学教授エルンスト・ノルテが「過ぎ去ろうとしない過去」で、ホロコーストは歴史上の多の虐殺と大して変わらないものであるのに、かつて迫害されたユダヤ人はいまでは「永く特別に取扱われ、特権化されている」などと述べ、論争となった(歴史家論争)[90]1988年2月10日にはノルテ教授の車が放火される[61]。また1998年には作家のマルティン・ヴァルザーフランクフルト書籍見本市の平和賞受賞講演で、ホロコーストがドイツ人に対して「道徳的棍棒」として使われていると述べて元ドイツ・ユダヤ人中央評議会議長イグナツ・ブービスとの間に「ヴァルザー論争」が起こった[91]。彼らもホロコーストの存在自体を否定したわけではないが、否定論者には彼らの言説が、ホロコーストがユダヤ人に利益にもたらしている証明として、しばしば利用されることもある。

2001年2月にドイツのシュピーゲル誌が発表した世論調査結果によると「ユダヤ人団体は、自身が利益を得るために、独に対し過度の補償要求をしていると思うか」との設問に対し、ドイツ人の15%がそうだと答え、50%が部分的にせよそうだ、と回答している。また2003年12月に行われたイギリスのガーディアン誌の世論調査では「ユダヤ人は自分たちの利益のためにナチス時代の過去を利用し、ドイツから金を取ろうとしているか」という質問に全体の1/4が「そう思う」と返答し、1/3が「部分的だが真実」との認識を示すなど「ホロコースト産業」論も現在のドイツにおいて広く受け入れられている。

イスラム教国家においては、ホロコーストに対するユダヤ人への同情論が、結果的にシオニズムの容認とパレスチナからのパレスチナ人追放へと繋がったとする反発から、ホロコースト否認論が近年台頭してきている。中東では、パレスチナの政治グループだけでなくシリアイランの政府の人間がホロコースト否認を表明しており[92]、2005年にはイランアフマディーネジャード大統領が「ホロコーストは無かった」などとホロコーストを否定する発言を行って非難を受けた。

ホロコースト否認論はイスラム世界では比較的新しい動きである。名誉毀損防止同盟 (ADL) の副理事ケネス・ジェイコブソン (Kenneth Jacobson) はハアレツ (Haaretz) 紙のインタヴューに応えて次のように述べている。

ファタハの協同設立者の1人でパレスチナ解放機構の指導者の一人であるマフムード・アッバースはモスクワ東洋大学で1982年に歴史学の博士号を取得したが、学位論文は『ナチスとシオニスト運動の指導者との秘密の関係』と題するものであった[93][94]。なお、ソ連は1960年代からナチスとシオニスト指導部との秘密の結び付き (en:Zionology) を主張し、それを押し進めてきていた。彼がその博士論文を基に1983年に書いた『もう一つの顔: ナチスとシオニスト運動との秘密の関係』 では次のように述べられている。

アッバースはまた、2006年3月にハーレツ紙のインタヴューでこう述べている。

ホロコーストの修正は、現在、様々なアラブ人指導者によって恒常的に宣伝され、それが中東全域の各種メディアを通じて広まっている[97]。2002年8月にはアラブ連盟のシンクタンクで、アラブ首長国連邦副首相のスルターン・ビン・ザーイド・アル・ナヒヤーン (Sultan Bin Zayed Al Nahayan) が議長を務めるザーイド協同追求センター (Zayed Center for Coordination and Follow-up) がアブダビでホロコースト修正シンポジウムを開催した[98]ハマースの指導者たちもまたホロコースト修正を宣伝している。

2005年12月の演説で、イランの大統領マフムード・アフマディーネジャードはホロコーストがイスラエルを守るために広められた「おとぎ話」だと述べ、国際的非難の新しい波を誘った。「彼らはユダヤ人の虐殺の名の下に伝説を捏造し、神よりも、宗教よりも、預言者たちよりも高い位置にそれを捧げ持っている」と述べ、またユダヤ人を迫害したのはドイツやオーストリアとして、迫害の責任を負うのはイスラエルの国家のために土地を手放しているパレスチナ人ではなくドイツやオーストリアであり、イスラエルはこれらの国々に移転するべきだと主張した。さらにイスラエルのユダヤ人をアメリカ合衆国に移住させることを提案している[99]

2006年4月24日には、「究極の真実を明らかにするために」ホロコーストの真の規模を独立の立場から再び査定することを求めた[100]。米国ではイスラム教徒公共問題協議会en:Muslim Public Affairs Councilがアフマディーネジャードの発言を非難した[101]。同年12月にはテヘランで、ホロコーストの存在に否定的・懐疑的な立場を取る著名人・識者を集めたホロコースト・グローバルヴィジョン検討国際会議が開かれた。一方、ハマースの政治指導者であるハーリド・マシャアル (Khaled Mashal) はアフマディーネジャードの発言を「勇敢だ」と評価し、「イスラム教徒はイランを支持するだろう。それはイランが彼らの想い、特にパレスチナの人々の想いを言葉にしてくれるからだ」と述べた[102]

2007年1月26日国連総会本会議は、ホロコーストの「全面的、部分的否定」を非難し、すべての加盟国に対してホロコーストの否定とそのための活動を禁止する措置を執ることを勧告する決議案が103カ国の共同提案によって提出された。この決議は投票なしで採択されたが、イランは不参加で「偽善的」と批判した[103][104]

日本においては、フォリソンなど欧米の否認論者の言説を紹介する形で否認論が展開された。ユダヤ陰謀論論説で知られる宇野正美もしばしばホロコースト否認論説を著書に残している。

1994年にはジャーナリストの木村愛二が雑誌『噂の真相』に「シンドラーのリストが訴えたホロコースト神話への大疑惑」と題した記事を寄稿した[105]。1995年には著書『アウシュヴィッツの争点』(リベルタ出版)を発表、言論規制の動きに警鐘を鳴らした。木村の問題提起に触発された本多勝一は、一時的にではあるがホロコースト見直し論に関心を抱き、当時、本多が編集長を務めていた『週刊金曜日』に木村による連載を企画した。

江川紹子はマルコポーロ事件の直後、マルコポーロの西岡記事を支持しないと明言した上で、サイモン・ウィーゼンタール・センター文藝春秋に対して行なった広告ボイコットの手法を「民主主義の枠を超えている」と批判[106]、月刊誌『噂の真相』やジャーナリストの長岡義幸などもこの問題を巡る言論弾圧の空気を批判し、「ガス室」についての判断は留保しつつも、西岡を擁護している。木村愛二は『マルコポーロ』の記事がイスラエル建国とホロコーストの関係に全く言及していない点を批判している[107]

西岡自身はその後、パソコン通信上の発言と1997年の著書[108]において、細部の記述には誤りがあったと自ら認めつつ、ホロコースト否認の立場を維持、ホロコースト否認論者に対する言論規制の動きを「ファシズムと呼ぶべきもの」と呼んで批判した。

ジャーナリストの田中宇は、ホロコーストをめぐる言論状況について「常識と異なる結論に達したら「犯罪者」にされるというのは、分析が禁じられているのと同じ」であるし、またヨーロッパではホロコーストの事実性を検証の対象にすることさえ禁じられようとしていると指摘している[1]。また、シオニストの中でも過激派と、国際協調主義を信奉する労働党系の中道派(左派)とでは意見が対立していると指摘している[1]

2014年産経新聞が11月26日付の同紙東海・北陸版(約5000部)にホロコーストを否定する書籍の全面広告を掲載し、ユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」より抗議を受け、謝罪を行った[109]

国連では1965年に人種差別撤廃条約を採択、1966年には国際人権規約が採択された。同B規約20条2項には「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する」とある。ホロコースト修正主義者は人種差別の罪で告発されることもある。否認論者はこれらは「表現の自由」の侵害であると主張しているが、欧州人権裁判所はガロディ裁判で「明確に立証されたホロコースト」に対して虚偽であるとして異論を唱えることは、人種主義とナチズムの復興をはかり、反ユダヤ主義を激化させる目的があると認定している。同裁判所は否認論の表現を認めることは、かえって人権の基礎となる正義と平和を侵害するものであるとしている[5]

ホロコースト否認は主に欧州の国において違法とされている。フランス(ゲソ法)、ベルギー (Belgian Negationism Law) 、スイス (刑法261条bis ) 、ドイツオーストリア (article 3h Verbotsgesetz 1947) 、ルーマニアスロヴァキアチェコリトアニアポーランド [110]ルクセンブルク などに存在する。イスラエルでも違法。カナダやイギリスでは、ホロコースト否認を禁止する法律はないが、名誉毀損や民族間の憎しみの助長やヘイトスピーチを禁止する法律がある。1997年には否認論者のガロディが、こうしたフランス国内の法律は「人権と基本的自由の保護のための条約」に違反しているとして欧州人権裁判所に救済を求めたが、同裁判所は全員一致でガロディの訴えを棄却している[5]。同裁判所はこの中で「ホロコーストは明確に立証された歴史的事実」であるとしている。

ドイツ・オーストリア・フランスでは「ナチスの犯罪」を「否定もしくは矮小化」した者に対して刑事罰が適用される法律が制定されているが、人種差別禁止法によって「ホロコースト否定」を取り締まる国もある。

1994年からドイツでは「ホロコースト否定」が刑法で禁じられており、違反者は民衆扇動罪(第130条)で処罰される。オーストリアにも同様の法律がある。なお「民主主義に敵対する言論や結社の自由は認めない」という理念は極右と極左の双方に向けられており、旧西ドイツの最高裁判所は1956年にドイツ共産党に対し解散命令を下した。これはドイツが第二次大戦の教訓から「自由の敵には自由を与えない」「不寛容に対しては不寛容を以て当たる」とする、いわゆる「戦う民主主義」を採ったためである。

2003年のヨーロッパ委員会による「サイバー犯罪条約への追加議定書」[111]では、人種差別的で排外主義的な行為の犯罪化に関する協約で、第6条に「大量虐殺や人道に対する罪の否認、著しい矮小化、是認、正当化」が上げられているが、まだ法律化されていない段階にある。

またこれらの国では、ナチズムに関するナチの象徴なども禁止している。加えて、ホロコースト否認を特別に禁止している国々では、ヘイトスピーチを禁じるなど、公的な場での発言を制限する法体系が存在していることが指摘されている。グッテンプラン (D. Guttenplan) によると、これは「米国やイギリス、元イギリス植民地のような判例法 (Common law) の国々と、大陸ヨーロッパの大陸法 (Civil law) の国々との違いである。大陸法の国々では法律は一般により規範的である。また、大陸法の体制下では、裁判官はより多く尋問者として振舞い、証拠を分析するほかに証拠を集めたり提示したりする。」[112]

2004年にはイスラエルで、外国に対して「ホロコースト否定論者」の身柄引渡しを要求できる「ホロコースト否定禁止法」が制定された。 ホロコースト犠牲者は100万人に満たないという内容の博士論文を書いたことがあるパレスチナ解放機構事務局長マフムード・アッバース(前首相)を標的として極右政党国民連合が提出した法案であった[113]

2007年1月26日国連総会本会議には、ホロコーストの「全面的、部分的否定」を非難し、すべての加盟国に対してホロコーストの否定とそのための活動を禁止する措置を執ることを勧告する決議案が103カ国の共同提案によって提案され、可決された。ただしこの勧告に強制力はない[104]

アインザッツグルッペン報告書「秘密帝国問題」。1941年12月
ヘフレ電報。親衛隊大隊指揮官ヘフレからアイヒマン宛て、1943年1月11日付。2000年イギリス国立公文書館で発見された。
1942年12月26日、ロシア南部、ウクライナ等の地域で、この期間に「363,211人のユダヤ人」が「処刑」されたことが記載されたヒムラーからヒトラーへの報告書第51号(1942年12月)[21]
アウシュヴィッツ博物館のガス室外にある案内表示
ニュルンベルク裁判
オットー・エルンスト・レーマー
ロベール・フォリソン
エルンスト・ツンデル
デイヴィッド・アーヴィング