グレゴリオ暦

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グレゴリオ暦(グレゴリオれき、: Calendarium Gregorianum: Calendario gregoriano: Gregorian calendar)は、ローマ教皇グレゴリウス13世ユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日金曜日(グレゴリオ暦)[注釈 1]から行用されている暦法である。

グレゴリオ暦は、現行太陽暦として日本を含む[注釈 2]世界各国で用いられており、グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦(旧暦)に対比して新暦ラテン語: Ornatus)と呼ばれる場合もある[注釈 3]紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。

グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を 365日 + (97/400)日 = 365.2425日(365日5時間49分12秒)とすることである。この平均日数365.2425日は、実際に観測で求められる平均太陽年(回帰年)の365.242189572日(2013年年央値)に比べて約26.821秒長いだけであり、ユリウス暦に比べると格段に精度が向上した[注釈 4]

日本では1872年(ほぼ明治5年に当たる[注釈 5])に採用され、明治5年12月2日(旧暦)の翌日を、明治6年1月1日(新暦)(グレゴリオ暦の1873年1月1日)とした。

グレゴリオ暦の前は、ユリウス暦が採用されていた。これは紀元前45年にユリウス・カエサルによって制定されて以降、キリスト教文化圏を中心に使用されてきたもので、その暦法では、暦年の平均日数を365.25日としている。しかし、実際の太陽年は約365.24219日であるので、ユリウス暦日と実際の太陽年から得られる暦日とのずれは毎年蓄積される。この問題は、ユリウス暦を用いるローマ帝国領にキリスト教が広まると、思わぬ形で表面化することになっていく。

新約聖書において、イエス・キリスト処刑と復活の記事は、ユリウス暦ではなく太陰太陽暦であるユダヤ暦に基づいて記述されており、イエスの処刑日は、ユダヤ教過越しの日の前日すなわちニサン月14日(ヨハネによる福音書)または過越祭第一日目の同月15日(共観福音書)とある。このユダヤ暦ニサン月は春分の頃に来る太陰月であり、メソポタミア文明の暦においては伝統的に正月(新年)とされていたものである。このような状況において、ローマ帝国領に住むキリスト教徒としては、その最大の祝祭日の一つである復活祭をどの期日に祝うのかが問題となった。

この点につき、初期の教会ではさまざまな方法が採用されていた。聖書の記述通りに、ユダヤ暦をそのまま持ち込んでニサン月15日に祝う教会もあった。しかしこの日は基本的に月齢で決まるので曜日は一定しない。そのため曜日の問題を重視して、ニサン月14日の満月の日の直後の日曜日を復活日とする教会もあった。他方で、エジプト暦の伝統を持つアレクサンドリアの教会では、ディオクレティアヌス紀元コプト暦およびメトン周期を用いて季節(太陽年)と月齢(太陰月日)を独自に計算し、春分後最初の太陰月14日のすぐ後の日曜日を復活日とする方法を採用した。季節と月齢を合わせる基準日を設け、そこからメトン周期を用いて太陰年と太陽年の差を修正しながら各年の「ほぼ同じ季節に該当する太陰月日(同じ月齢の日)」を計算していけば、擬似的な太陰太陽暦を編纂するのと実質的に同じことができるからである。この方法をコンプトゥスという。

この方法を実行するためには、メトン周期の知識を理解し、季節と月齢を揃えるための太陽暦上の基準日を定めればよい。幸いなことにユリウス暦は太陽暦である。そしてユダヤ暦ニサン月は春分の頃に訪れる太陰月である。当然、基準日は春分ということになる。太陽暦であるユリウス暦では、春分日は毎年ほぼ同じ日になるはずである。この点、ローマ帝国ではカエサルによるユリウス暦施行間もない頃から、春分日をユリウス暦3月25日とする考え方が広まっており[注釈 6]、聖書のユダヤ暦の記述を無視してユリウス暦の同日に復活祭を祝ってしまう教会もあった。しかしすでに4世紀の段階で天文学的な春分日は3月21日ごろとなっており、アレキサンドリア教会はこの事実を正確に把握していた。そこで、第一次ニケーア公会議では、ユリウス暦の期日を太陽暦上の準拠日としつつ、アレキサンドリア教会によって用いられてきた擬似的な太陰太陽暦の作成手法を用いて、春分日であるユリウス暦3月21日直後の太陰月14日の直後の日曜日[注釈 7]を以て、復活祭期日とすることとした。

このような経緯で決められた復活祭日であったが、このように「キリスト教上の春分日」をユリウス暦上に固定してしまった以上、実際の天文学的春分日とユリウス暦上に定められた春分日すなわち3月21日との差は、年を追うごとに蓄積されていき、これが直ちに復活祭の期日の不正確さに直結することとなった。ユリウス暦のほうが太陽年より長いため、ユリウス暦3月21日は天文学的春分日より1日単位で徐々に遅れていく。ところが復活祭の期日は太陰月日(月齢)に準拠する方法で定められたため、差異が1太陰月(朔望月)分に増幅されてしまい、復活祭がまるまる1か月遅れるケースが徐々に増えていく。イングランド教会博士であったベーダ・ヴェネラビリスは、725年にはユリウス暦にはずれがあり、それはすでに3日間以上になっていること、またさらにこのずれは今後拡大するだろう、と指摘している[3]。さらに問題だったのは、メトン周期の側も、わずかに朔望月(太陰月)とずれていることで、このため310年ごとに1日の誤差が蓄積されていた。13世紀のロジャー・ベーコンは、ずれは7日間から8日間に及んでいると推定し、ダンテ・アリギエーリもユリウス暦の改定の必要性を説いている。

16世紀後半には、上述のようにユリウス暦上で定めた3月21日の春分日は、実際の春分日から10日間弱ものずれが生じていた。このため、ローマ・カトリック教会は、改暦委員会に暦法改正を委託した。この改暦は対抗宗教改革の一環としてなされたものであって、改暦に関しては賛成・反対の立場から大きな論争となった。

1582年10月4日まで用いられていたユリウス暦では、平年は1年を365日とし、4年ごとに置く閏年を366日とし、これによって平均年を365.25日としていた。

しかし、平均太陽年、つまり実際に地球が太陽の周りを1周する平均日数は、365日5時間48分45.179秒 = 31556925.179秒 = 約365.242189572日(2013年年央)[4]である。したがって、ユリウス暦の1年は、実際の1太陽年に比べて、365.25日 − 約365.2422日 = 約0.0078日(約11分15秒)長い。このずれは下記の計算のとおり、約128年で1日になる。

ユリウス暦は、その制定当時の天文観測水準を考えればかなりの精度だったが、千数百年も暦の運用が続くと、天文現象の発生日時と暦の上の日付の乖離は無視できないものとなった。16世紀末に10日ものずれが生じていたのは、このためである。

なお、上記の計算は2013年時点での計算であり、グレゴリオ改暦が議論されていた16世紀半ばごろの計算とは少し差異がある。

ユリウス暦による春分日のずれを、ローマ・カトリック教会としても無視できなくなり[5]第5ラテラン公会議(1512-1517)において改暦が検討された。このときフォッソンブローネ司教のミデルブルフのパウル(en:Paul of Middelburg)(1446-1534)は、コペルニクスを含めてヨーロッパ中の学者に意見を求めた。しかし、コペルニクスは「太陽年の長さの精度は不十分であり、改暦は時期尚早である」と返答した[6][7]。コペルニクスは彼の主著「天球の回転について」の序文でこのことを明記している[8]

次に、トリエント公会議1545年 - 1563年)において、実際の春分日を第1ニカイア公会議の頃の3月21日(つまり修正すべきユリウス暦のずれの蓄積は公会議開催の325年からの約1240年間分にあたる約9.6日間で、これを10日のずれと見做した)に戻すため、教皇庁に暦法改正を委託した。時の教皇グレゴリウス13世は、これを受けて1579年にシルレト枢機卿を中心とする改暦委員会を発足させ、暦法の研究を始めさせた。この委員会のメンバーには、最初の改暦案を考案した天文学者のアロイシウス・リリウスの弟であるアントニウス・リリウス(Antonio Lilio)や数学者クリストファー・クラヴィウスらが含まれていた。

アロイシウス・リリウスの提出した原稿そのものは残されていない。委員会は1577年にCompendium novae rationis restituendi kalendarium(Compendium of the New Plan for Restoring the Calendar: 暦改正の新しい原理の大要)という24ページの冊子を刊行した。この冊子も長い間、失われたと考えられていた。しかし、1981年10月に歴史家のゴードン・モイアー (Gordon Moyer) が発見した。モイアーは最初、Biblioteca Nazionale Centrale di Firenze(フィレンツェ国立中央図書館)で発見し、その後、バチカン図書館シエーナのイントロナティ市立図書館(Biblioteca Comunale degli Intronati de Siena)でも発見した。さらに、Polytechnic Institute of New YorkのThomas B. Settle も1975年に フィレンツェのBiblioteca Marucelliana とフィレンツェ国立中央図書館で同じ冊子を発見していたことが分かり、少なくとも7冊が現存していることが明らかになった[9]

この冊子によると、アロイシウスは1252年に書かれたアルフォンソ天文表における365日5時間49分16秒 = 365.242 5463日を採用し[10]、改暦案を考案した。しかし、アロイシウスは1576年に死亡しており、その年に実際に案を委員会に提出したのは弟のアントニウス・リリウス(Antonio Lilio)である[11][12][13]

ユリウス暦の約1240年間の運用により蓄積された約10日間のずれをどのように修正するかについては、次の2案が委員会に提出された。

結局、委員会は、第2案を採用したのである[14]

10日間を省く月を1582年の10月にしたことについて、クラヴィウスは、「単に10月が宗教典礼日(religious observance)が最も少ない月であり、教会への影響が最小だからだ」と説明している[15]

改暦委員会の作業の末に完成した新しい暦は1582年2月24日に発布され、ユリウス暦1582年10月4日木曜日の翌日を、曜日を連続させながら、グレゴリオ暦1582年10月15日金曜日とすることを定め、その通りに実施された。

ただし、上記の日付通りに改暦を実施したのは、イタリア、スペイン、ポルトガルなどごく少数の国に過ぎず[16]、その他のヨーロッパの国々での導入は遅れた。

グレゴリオ改暦が議論され始めていた1560年ごろには、平均太陽年は、約365.2422日であることが知られていた。(365.25日 − 365.2422日)× 400年 = 3.12日/400年 であるから、ユリウス暦における置閏法(400年間で100回の閏年)に比べて400年間に3回の閏年を省けば、かなりよい近似となることが分かる。このため、グレゴリオ暦では、400年間に、97回 (= 100 − 3) の閏年を置くこととして、1年の平均日数を365.2425日 = 365日5時間49分12秒 = 正確に31556952秒 とした。

なお、400年間の日数は、365.2425 × 400 = 146 097日であり、これは7で割り切れる(146097 ÷ 7 = 20871)ので、グレゴリオ暦は、曜日も含めて400年周期である。

400年間に3回の閏年を省くには様々な方法があり得るが、3回の平年がなるべく均等に分布すること、わかりやすく記憶しやすいことを考慮して、「西暦紀元(西暦)の年数が、100で割り切れるが400では割り切れない年は、平年とする。これ以外の年では、西暦年数が4で割り切れる年は閏年とする。」というルールが採用された。

100で割り切れる年は400年間に4回あるが、400で割り切れる年は400年間に1回だけである。以上のルールによって、ユリウス暦では閏年になる3回分の年を、グレゴリオ暦では平年とすることができるのである。

100で割り切れる年のうち、西暦1600年2000年2400年は400で割り切れるので、これらの年は閏年のままである。しかし、西暦1700年1800年1900年2100年2200年2300年2500年・2600年・2700年は400で割り切れないので、これらの年は平年となる。

平年および閏年のそれぞれにおける各月の日数は、グレゴリオ暦でもユリウス暦と同じである。すなわち、1月・3月・5月・7月・8月・10月・12月は31日、4月・6月・9月・11月は30日、2月は平年が28日、閏年は29日である。

上記の暦法(グレゴリオ暦)を1582年以前に遡って適用すると、200年3月1日から300年2月28日までは、ユリウス暦と同じ日付となる(ユリウス通日も参照)。これは以下の経緯による。

下記のようにグレゴリオ暦での平均の1年(365.2425日)は、実際に観測される平均太陽年(2013年年央)に比べて約26.821秒(= 約0.000310428日)だけ長い。このずれは約3221年かけて1日に達する。

以上のように、ユリウス暦では1日のずれが生じるまでに約128年しかかからなかったのに対して、グレゴリオ暦では同じく1日のずれが生じるまでに約3221年を要するまでに精度が高まった。

デイヴィッド・E・ダンカン(英語版)によると、1997年時点では、1582年以来の誤差が累積して、すでに約2時間59分12秒だけ進んでいる[17]

なお、上記の計算は平均太陽年が不変であるとした場合のものである。実際には平均太陽年は100年(正確には1ユリウス世紀)ごとに0.532秒ずつ短くなっている(太陽年の項を参照)。このため、3221年後には、約17秒ほど平均太陽年が短くなっていることを考慮すると、グレゴリオ暦との1日のずれはもっと早い時点で起こることになる(太陽年#太陽年の変化、平均太陽年の計算式(英語版))。

また、春分日時の間隔に着目した誤差は歳差などの影響により上記の計算とは異なり、西暦2000年時点で7700年に1日[18]、日本で明治改暦が行われた1873年の時点で7200年に1日[19]となる。

月日を導く暦法そのものと年数を数える紀元(紀年法)は別の概念であるが、上述のように、グレゴリオ暦はその置閏法をキリスト紀元の年数に基づいて定めるものとして制定されているので、キリスト紀元と不可分一体の関係にある。ところで、キリスト紀元の正式名称は、グレゴリオ暦改暦勅書(Inter Gravissimas)末尾の日付にもある通り、"anno incarnationis dominicae" すなわち「主(イエス・キリスト)の受肉(受胎)から数えた年数」である。この点からすれば、キリスト紀元年を1つ繰り上げるべき日すなわち新年は、イエスが受胎した日すなわち受胎告知日の3月25日が正当となるはずである。実際、改暦直前のローマ教皇庁自身が、3月25日を年初とするユリウス暦を使用していた。しかしグレゴリオ暦は、ユリウス・カエサルがユリウス暦を制定した当時の新年すなわち1月1日をその年初とする方法を採用した[注釈 9]。したがってグレゴリオ暦では常に1月1日にキリスト紀元年数が1つ増える。なお、グレゴリオ暦月日の年数として記されていても、ローマ教皇庁の公文書に記されていた教皇在位年数や、イギリスおよび英連邦王国諸国の公文書で近年まで使われていた国王在位年数(regnal year)などは、日本の元号と異なり即位日をもって年数が一つ増加する。

ユリウス暦と太陽年(実際の季節)とのずれは、13世紀の哲学者ロジャー・ベーコンが指摘してから300年もの間顧みられず、16世紀になって宗教上の問題が顕著になるまで放置された。このずれを修正し新たにグレゴリオ暦を制定した後も、それがローマ教皇による発令だったので、その導入時期は国・地域によってまちまちであった。カトリックの国は比較的早く導入したが、一方でそうでない国では宗派上の対立もあって、導入までに少なくとも100年以上かかった。正教会の大半は現在も改暦せずユリウス暦を使用し続けている。非キリスト教国においては、1873年日本(後述)を皮切りに、徐々にグレゴリオ暦を導入する国家が増加していった。

グレゴリオ暦の制定後、実施日である1582年10月15日に即座にこの暦を導入したのは、カトリックを奉じるイタリア諸国、スペイン、スペインに併合されていたポルトガル、ポーランドである。フランスは2か月ほど遅れたものの、1582年中に導入を果たした。1583年には神聖ローマ帝国のカトリック諸邦で、1584年にはスイスのカトリック諸州で導入され、カトリック諸国の改暦は数年を経ずして完了した。

プロテスタント諸国は、グレゴリオ暦への改暦に消極的だった。その理由の一つとして、復活祭の日付の決定がある。自らの祭事の日付をカトリックが定めた暦によって決められることを嫌ったのである。しかし、ユリウス暦の日付がずれており、ずれた日付を基に祭日を決めることに問題があることは、プロテスタントの宗教家も認識はしていた。したがって、グレゴリオ暦はプロテスタントにも徐々に浸透した。

最も早くグレゴリオ暦を導入したのは、ドイツのプロテスタント諸国であった。1699年のレーゲンスブルク帝国議会において、日付の決定のみグレゴリオ暦を使用するが、復活祭の日付の計算にはプロテスタントのドイツ人天文学者ヨハネス・ケプラーが作成したルドルフ星表を使うということで妥協した。この暦は改良帝国暦と呼ばれた。しかし、ケプラーはグレゴリオ暦の方が優れていることを知っていたので、日付計算はすべてグレゴリオ暦で行っていた。このため、実質的には改良暦はグレゴリオ暦で計算するのとほぼ同じだった。この妥協はうまくいき、1700年に実施された際には隣国デンマークもこれに倣い、周辺のプロテスタント諸国も徐々にこれに追随していった。

1752年にはイギリスが帝国全域においてグレゴリオ暦を導入、1753年にはスウェーデンが独自暦だったスウェーデン暦を廃止してグレゴリオ暦に完全移行し、全てのプロテスタント諸国がグレゴリオ暦を導入することになった。

正教会が優勢な東欧では、導入までにより長い時間がかかった。16世紀に、コンスタンディヌーポリ全地総主教イェレミアス2世はグレゴリオ暦を否認し、他の正教会でもグレゴリオ暦を承認する教会はなかった。このことはブレスト合同が不完全なものに終わる結果にも影響があった。

グレゴリオ暦を使用するフィンランド正教会を除き、エルサレム総主教庁グルジア正教会ロシア正教会セルビア正教会日本正教会を含む正教会は、現在でもユリウス暦を使用している。

ロシアで最も強い影響力をもつロシア正教会は正教会に属しており、現在でもユリウス暦を使用している。同国で1917年グレゴリオ暦3月に起きた革命を「2月革命」、同11月に起きた革命を「10月革命」と呼称するのは、ロシア革命が起きた1918年までユリウス暦を使用していたからである。 ロシア革命後のコンスタンディヌーポリ教会1923年に採用した暦は修正ユリウス暦(通称:ロシア暦/英語: Revised Julian calendar)と呼ばれるものであり、厳密にはグレゴリオ暦ではないが、グレゴリオ暦とユリウス暦の月日の修正が行われ、2800年までは二つの暦の間にずれが出ないようになっている。なお、2800年以降は再びずれが生じる。 現在ロシア国内では、正教会を除きグレゴリオ暦を使用している。したがって、ユリウス暦12月25日の降誕祭は、ロシアのカレンダーでは「1月7日」と表示されている。

他方、復活大祭の算出にはすべての正教会がユリウス暦を使用するので、復活祭およびそれに伴う祭日斎日はフィンランド正教会以外の正教会が一致して祝っている。ただし、これはユダヤ教の祭日が決まった後でキリスト教の祭日を決定するという、初期のキリスト教の祭日決定法に従っているからであり、グレゴリオ暦を導入していないことによるものではない。ユダヤ教では1年の長さがユリウス暦とほぼ同じユダヤ暦を基準にして祭日を決定するので、正教会では完全にグレゴリオ暦に移行できないだけである。

アルメニア使徒教会では、1923年以来グレゴリオ暦が採用されている[要出典]。ただし、エルサレムアルメニア総主教区に関しては例外的にユリウス暦を使用している[20]

シリア正教会においては地域により、あるいは各信徒内での伝統の差異により、ユリウス暦とグレゴリオ暦が併用されている[要出典]

コプト正教においてはグレゴリオ暦は採用されておらず、独自のコプト暦が用いられている。

アッシリア東方教会では1964年に当時のアッシリア総主教マル・エシャイ・シムン23世(英語版)が行った宗教的改革の一環としてグレゴリオ暦が採用されている。ただしこの改革はすべての信徒に受け入れられた訳ではなく、改革に反対する信徒の一部は古代東方教会(英語版)として分離独立している。

日本では、ほぼ西暦1872年に当たる明治5年、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」とする改暦ノ布告(明治5年太政官布告第337号)を布告した。

この布告では、明治5年12月2日(1872年12月31日)をもって太陰太陽暦天保暦)を廃止し、翌・明治6年(1873年)から太陽暦を採用すること、「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」として、グレゴリオ暦1873年1月1日に当たる明治5年12月3日を改めて明治6年1月1日とすることなどを定めた。したがって、明治5年まで使用されていた天保暦は、明治6年以降は旧暦となった。これが明治改暦である。

改暦ノ布告は年も押し迫った明治5年11月9日(グレゴリオ暦1872年12月9日)に公布され、社会的な混乱をきたした。暦の販売権をもつ弘暦者(明治5年には頒暦商社が結成された)は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていた。急な改暦によって従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害をこうむることになった。

一方、福澤諭吉は、太陽暦改暦の決定を聞くと直ちに『改暦弁』を著して、改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時の1873年(明治6年)1月1日付けで慶應義塾蔵版で刊行されたこの書は大いに売れて、内務官僚の松田道之に宛てた福澤の書簡(1879年(明治12年)3月4日付)には、この出来事を回想して「忽ち10万部が売れた」と記している[21][22]

これほど急な新暦導入が行われた理由として、明治政府の財政状況が逼迫していたことが挙げられる。

当時参議であった大隈重信の回顧録『大隈伯昔日譚』によれば、旧暦のままでは明治6年は閏月があるため、13か月となる。すると、当時支払いが月給制に移行したばかりの官吏への報酬を、1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり、12か月分の支給で済む[注釈 10]。また、明治5年12月は2日しかないことを理由に支給を免れ、結局月給の支給は11か月分で済ますことができる。

当時は1、6のつく日を休業とする習わしがあり、これに節句などの休業を加えると年間の約4割は休業日となる計算であったが、新暦導入を機に週休制に改めることで、休業日を年間50日余りに減らすことができる[23]

改暦ノ布告は、施行まで1か月に満たない期間の中で慌てて布告されたためか、置閏法に不備があった。それはグレゴリオ暦の肝心な要素である「西暦年数が100で割り切れるが400で割り切れない年(400年間に3回ある。)を、閏年としない」旨の規定が欠落していたことである。

このままでは導入された「新しい太陽暦」はグレゴリオ暦ではなく、さりとて日付が12日ずれているためユリウス暦そのものでもなく、「ユリウス暦と同じ置閏法を採用した日本独自の暦」となってしまう。また、布告の前文にある文面もおかしく、グレゴリオ暦で実際に1日の誤差が蓄積されるのに要する年数は約3200年であるにもかかわらず、「七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス」としていた。これは、起草者が参考にした天文書『遠西観象図説』の誤りと考えられている。

そこで、西暦1898年(皇紀2558年・明治31年)5月11日に、改めて勅令「閏年ニ關スル件」(明治31年勅令第90号)を出して、置閏法をグレゴリオ暦に合わせたものに改めた。

この勅令では、神武天皇即位紀元(皇紀)年数を用いて閏年か平年かを判別している。ただし皇紀自体から660を引いた値、すなわち同年のキリスト紀元と全く同じ数を引数として計算するため、グレゴリオ暦と全く同じ置閏法を実現できる。この置閏法の誤りを修正する勅令が公布された時には、日本で太陽暦を導入してから初めての「紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年」である皇紀2560年、すなわち西暦1900年(明治33年)は1年半後に迫っていた。

国立天文台暦計算室の暦Wikiの記事「明治以降の編暦」も参照のこと。

ただし、国立天文台は、毎年2月に「暦要項」を官報告示し、翌年の「二十四節気および雑節」、「朔弦望」を計算・提示しているため、旧暦の「30日の大月、29日の小月」の設定、置閏の基準である「中気」の提示に相当するものが「公的」に行われていることになる[注釈 11]

詳細なリストは、en:List of adoption dates of the Gregorian calendar by countryを参照。

グレゴリオ暦は、ユリウス暦に比べはるかに精度が高くなっているが、それでも上記のとおり誤差は完全に解消されたわけではない。そもそも地球の自転周期と公転周期の比は整数の比になっていない以上、この誤差は必然的に生ずるものである。

また年初の日付が、天文学的な現象とは関係がない日付であること[注釈 12]や、各月の日数が不規則であること、1年の日数が週の倍数になっていないため、暦日と曜日が一致しないことなどの問題点が指摘され[28]、しばしば改暦運動が盛り上がった。こうした改暦運動で実施されたものは、1793年にフランスで施行されたフランス革命暦のみであるが、合理性に徹するあまりそれまでの週や七曜の廃止を行うなどして大混乱を招き、1806年にはグレゴリオ暦に復帰した。しかしその後も、世界暦への改暦提案などがしばしばなされている。

大統暦1392-1653 / 時憲暦1653-1782 / 千歳暦1782-1894 / グレゴリオ暦1894-1897 / 明時暦1897-1905 / 千歳暦1905-1907 / 隆煕暦1907-1910

元嘉暦?-696 / 儀鳳暦697-763 / 大衍暦764-862五紀暦858-861[1] / 宣明暦862-1685 / 貞享暦1685-1755 / 宝暦暦1755-1798 / 寛政暦1798-1844 / 天保暦1844-1872 / グレゴリオ暦1873-

福沢諭吉著『改暦弁』初版
西暦1895年に締結された下関条約の調印書。見開き右頁の最後に記された締結日は、既にグレゴリオ暦を導入していた日本の日付が「明治二十八年四月十七日」となっているのに対し、太陰太陽暦時憲暦を使用していた清国の日付は「光緒二十一年三月二十三日」となっている。